エスペラントとは – 創案者ザメンホフ編

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ポーランドの眼科医 ルドヴィーコ・ラザーロ・ザメンホフ(Ludoviko Lazaro Zamenhof, 1859-1917)は世界平和を願い、国際共通語エスペラント(Espearnto)を創案し、1887年に発表しました。

エスペラントの創案者 ザメンホフ

ザメンホフの肖像写真

 ザメンホフというと、豊かなヒゲを生やし、優しい眼でほほえむ老紳士というイメージがありますが、彼がエスペラントを発表したのは1887年、27歳のときです。当時彼は、ワルシャワ大学医学部を卒業して、眼科の若き開業医でした。
 エスペラントは、青年ザメンホフが青春のすべてをささげてつくったことばでした。
 彼がエスペラントのような人工語を作ろうとし始めたのは13歳のころです。そして、1878年、高校(ギムナジウム)最終学年のとき、彼はエスペラントの原案をつくりあげます。

「民族と民族が敵する心よ、消えよ、失せよ、時は来たのだ。すべての人が家族のように心ひとつになる時が。」

 これは生まれたての言葉で、さっそくザメンホフがつくった詩です。
 その後ザメンホフは、この言語で、詩やエッセーを書いたり訳してみたりしながら、原案にさまざまな改良を加えていきます。
 第1原案ができてから9年間、机上の空論ではなく、実際に使える言語であることを自分自身で確かめた末に、ザメンホフは1887年に「国際語」の最初の教科書を自費出版します。40ページの小冊子でした。
 このときザメンホフは、著者として「エスペラント(希望する人)」というペンネームを使いました。彼が希望し、夢見たものは、何だったのでしょうか。
 ザメンホフが生まれたのはロシア領ポーランド。ユダヤ人、ポーランド人、ロシア人、入植者のドイツ人などが混住する地で、彼自身はユダヤ人の語学教師の息子として、1859年に生まれました。
 ことばが違い、宗教が違う民族どうし、反目といさかいが日常茶飯事でした。「もっとお互いの理解と寛容があれば」と願ううちに、異なる民族を結ぶやさしい共通語をザメンホフは夢見るようになったのです。
 彼は、おのおのの民族の言語・宗教が最大限に尊重されなければならないと考えました。宗教について彼は、キリスト教の神も、ユダヤ教の神も、イスラム教の神も、実は1つの創造主であり、同じ絶対主に異なる仕方で祈りをささげているにすぎないと考えました。
 そして、個々の人間は、いずれかの国家・民族に属するものだという常識の枠をこえて、まず人類の一員であるべきだ、と考えました。これがホマラニスモ(人は人類の一員であるという考え方、「人類人主義」)という、彼の思想の根本です。
 エスペラントのために、ザメンホフは、旧約聖書の全訳、アンデルセン童話集、ゴーゴリの「検察官」などの名訳を残します。これらは今でもエスペラントの模範となっています。
 ザメンホフは1917年にドイツ軍占領下のワルシャワで、心臓病で亡くなります。しかし、彼の「夢」は今日もまた世界のそこここで、輝くような出会いを創っているのです。
(日本エスペラント協会パンフレット「通い合う地球のことば 国際語エスペラント」p.15より)

重要な日付
1859年12月15日:誕生。ポーランド(当時、帝政ロシア)のビヤウィストク市にて。
1887年 7月26日:エスペラントを「国際語」という小冊子にて発表。この時の筆名がDoktoro Esperanto (直訳:希望する人)であり、後に言語自体がこの名前で呼ばれるようになった。また、この小冊子のことを、よく「第一書(La Unua Libro)」と呼ぶ。
1917年 4月14日:死去。ポーランドのワルシャワにて。

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催し物情報

  1. 10/5~12/14(火) 滋賀県彦根市:国際語エスぺラント<テレ>入門講習会

  2. 10/16~11/27(土) 東京都杉並区:エスペラント語 入門講座

  3. 4/3~5/29(土) 京都:エスペラント語 入門講座

  4. 10/17~11/14(土) 東京都杉並区:エスペラント語 入門講座

  5. 10/10(土) 講演会 (ネット配信):『21世紀、ことばの壁はなくなるか』

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