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いまから 120 年 * ぐらい、つまり、みなさんの おじいさんの おじいさんが
うまれたころのことです。わたしたちの国、日本では、
それまで 200 年ぐらいのあいだ
そのころ、ヨーロッパの東の方、リトワニアというところにある小さな町、ビャウィストクでのことです。この町は、そのころ
ロシヤ、つまりいまのソ
この町に すんでいるのは 半分いじょうが ユダヤ人で、あとは ポーランド人、ドイツ人、ロシア人などでした。ですから 町の中では ユダヤ人はイディッシュ語を、ポーランド人はポーランド語を、ドイツ人はドイツ語を、ロシヤ人はロシヤ語を話していました。そのほかにも、リトワニア語、トルコ語、フランス語で話す人もいました。ロシアは ポーランドとたたかって この地方を しはいしていたので、「ポーランド語はつかうな、ロシア語をつかえ!」と、いうような めいれいさえ だしました。
そんなに たくさんの ことばがつかわれている この小さな町の ザメンホフさんのうちに 赤ちゃんがうまれました。ルドビーコという名前が つけられました。 1859 年 12 月 15 日のことです。おとうさんは ユダヤ人で、外国語の先生をしていました。まじめな きびしい人でした。おかあさんも ユダヤ人で、かみさまをしんじる やさしい人でした。ルドビーコが うまれたとき おとうさんも おかあさんも まだとてもわかくて びんぼうなくらしを していました。それにルドビーコのあとに つぎつぎと 妹や弟が 8 人も うまれました。
ルドビーコは 小さいときから からだがよわく よく びょうきに かかりましたが 本を読んだり、うたをつくったりするのが、だいすきな こどもでした。家の中で ルドビーコは ロシヤ語、ポーランド語、ドイツ語、リトワニア語、それに イディッシュ語も きいてそだちました。すこし大きく なってからは、おとうさんから ロシヤ語、ドイツ語、フランス語を きちんと ならいました。
ルドビーコは やさしい おとなしいこどもで、弟や妹の めんどうを よくみました。また、おかあさんの しごとも よくてつだいました。とおくの
ある日、ルドビーコは 妹のサラと さんぽをしていました。むこうの方から、5・6 人の 男の子が かけてきます。 「おい、ユダヤ人の においがするぞ。」「こいつらは かおは 人間のかおを しているけど、ほんとうは 犬なんだって。」「しっぽが あるかも しれないぞ。さがしてみようよ。」がまんできなくなった ルドビーコは、男の子たちに とびかかって いきましたが、はねかえされて しまいました。その男の子たちは ドイツ人の 子だったのです。ルドビーコとサラは 何もしていないのに ユダヤ人だというだけで いつも いじめられるのです。「ぼくは どうして ユダヤ人なんだろう。ほかの人と どこかちがったところが あるのかしら。ぼくだって、あのドイツ人の子だって みんな おなじ人間じゃないか。おかあさんは、いつも − 人は、みんな きょうだいですよ。なかよく しなきゃ − って いうけど、町にいるのは 人間なんかじゃない。ユダヤ人と、ポーランド人と、ロシヤ人と、ドイツ人と ・・・・・みんな べつべつの 人ばかり ・・・・・ それだけじゃないか。きょうだいなんかじゃない ・・・・・」ルドビーコは このときのことを いつまでも わすれることができませんでした。
ユダヤ人は およそ 2000 年ものあいだ 自分たちの国を もたずに ヨーロッパ中で、みんなに きらわれながら くらしてきたのです。じゆうに ひっこしをしたり、しごとをえらんだりもできず、ほかの人たちからは 犬のように あつかわれてきたのです。
町で けんかをするのは
こどもたちばかりでは ありませんでした。おとなたちも あいての
9 才のとき、ルドビーコは 中学校にはいりました。小さいときから おとうさんに 外国語をならっていたうえにべんきょうがとても すきだったので、クラスで一番 よくできました。入学してから まもなく ルドビーコは おもいびょうきに かかりました。やがてよくなり、町の中をあるけるようになったころ、こんどは妹のサラが もっと おもいびょうきになって、ある夜、とうとうしんでしまいました。「あの かわいいサラ。かわいそうなサラ。どうして しんで しまったんだ! サラ!」
14 才のとき、おとうさんが ワルシャワに しごとを かわったので、ルドビーコも ワルシャワの中学校に かわりました。この学校に はいるために
おとうさんから むかしつかわれていたギリシャ語と ラテン語を ならいました。むかしからあり、いまはもう つかわれていない このことばを、ルドビーコは むちゅうで
べんきょうしました。ルドビーコは こどものころの ビャウィストクでの できごとを、いまもよく おぼえていました。ことばが わかりあえないために、いつも
けんかばかりおきていた あの小さな町のことを。「みんなが わかりあえるような ことば。それは どんな ことばだろう。」ルドビーコは 考えました。それは
どこかの国のことばでは だめなのです。ポーランド人と ロシア人が話をするとき、それぞれが 自分の国のことばで話していては
わかりあえません。また、ポーランド人に「ロシア語で話せ」というような めいれいは ポーランド人を かなしくさせることでしょう。「どこの国のものでもない ことば
−− いったい どんなことばが いいのだろう。そうだ、ラテン語のように いまはもうつかわれていないことばは
どうだろう。」と、ルドビーコは 考えました。しかし、ラテン語は とてもむずかしい ことばです。「よし、自分で どこの国のことばでもない、やさしい、おぼえやすい
ことばを つくってみよう。」ルドビーコは
さいしょに考えたのは、あんごうのようなものです。でも これでは しゃべれないし、おぼえても すぐわすれてしまいます。「どうすれば
いいのだろう。」ルドビーコは がっかりしました。でも あきらめないで、今までならった たくさんのことばを よくしらべて、どうやって あたらしいことばを
つくりだそうかと 毎日まよっていました。ノ−トに つぎつぎと 書いてみたりも しました。そのうちに 学校で はじめて
とうとう あたらしいことばが できました。ルドビーコは 弟たちに このことばをおしえてみました。小さな弟たちでも かんたんに おぼえられました。
12 月のある日、おかあさんは このあたらしいことばと、ルドビーコの 19 才の たんじょう日を いわって、パーティを ひらいてくれました。 まえから あたらしいことばを つくるのに いろいろ助けてくれた友だちが あつまってきました。おかあさんは この日のために 大きなケーキを やいてくれました。「なんて すてきな ケーキだろう。」と、このあたらしいことばをつかって 10 才の弟が さけびました。 10 才のこどもでも つかえる ことばだったのです。「ばんざい! ぼくたちの ことばは いきているんだ!」みんなは かんげきしました。声をあわせて、このあたらしいことばでつくった うたを うたいました。そして、みんなで このことばを せかいにひろめようと ちかいあいました。
ルドビーコと 友だちは 「せかい語」と 名づけた このあたらしいことばを ひろめようと しました。ところが、友だちの おとうさんや おかあさんは、そのことにさんせいしてくれませんでした。それだけでなく、「そんな ばかみたいな ことばかり やってないで、学校のべんきょうを ちゃんと しなさい。」とか、「ユダヤ人となんかと つきあってちゃ ろくなことが ありませんよ。」とか いいました。
それで、友だちは ひとり そして また ひとりと ルドビーコのそばを はなれていって しまいました。ルドビーコも おとうさんに よばれました。「おまえは 大学に入って りっぱないしゃに なるのだから いつまでも こんなことをしていてはだめだ。大学を そつぎょうするまでは、せかい語のことは わすれて しっかり べんきょうをしなさい。」と いわれました。ルドビーコは つらい思いをしながらも、そうすることを やくそくしました。そして せかい語のノートを、おとうさんに あずけました。「りっぱな いしゃになったら きっと このノートを かえして下さいね。」
こうして ルドビーコは モスクワ大学に 入りました。いしゃになるための べんきょうを つづけながらも あの せかい語のことを 思い出し、「あんな やくそくを、おとうさんと しなければよかったな。学校のべんきょうを しながらだって、せかい語の けんきゅうもできるのに......」と思いながらも ルドビーコは おとうさんとの やくそくをやぶることは できませんでした。ルドビーコは 2 年間 モスクワ大学で いしゃになるためのべんきょうを しました。しかし、このロシヤの モスクワという町や、知った人の ほとんどいない 大学を、ルドビーコは どうしても すきになれませんでした。かぞくのすんでいる ワルシャワの町が なつかしくて たまらなく なりました。それで、とうとう ワルシャワの大学に かわることにしました。ルドビーコは 2 年ぶりに ふるさとの ワルシャワに かえってきました。おとうさん、おかあさん、弟たち、妹たち、みんなに かこまれて ルドビーコは しあわせな きぶんに なりました。
「学校のべんきょうを しながら せかい語のけんきゅうもできます。ぼくは そうしたいんです。おかあさん、ぼくの せかい語のノートは、いま どこにあるのですか。」「ルドビーコ、あのノートはね...... おとうさんが もやしてしてしまわれたのですよ。おとうさんはね、おまえのためを 思って......」ルドビ−コの目から なみだが こぼれそうになりました。「ぼくは、2年間、あんなにがまんしてきたのに......」
ユダヤ人として いままで さんざん くろうして いきてきたおとうさんは、ユダヤ人が 犬のように あつかわれないで、人間らしい くらしを していくためには、大学を出て、いしゃになるしか道がない、そのためには、かわいいむすこに せかい語のことを あきらめさせようと 考えて、ノートを もやしてしまっていたのです。
ルドビーコは おとうさんの へやにはいって、2 年まえの やくそくを とりけして もらいました。 ルドビーコは 2 年間 やくそくを まもって くらしたのに、おとうさんは、やくそくを やぶって ノートをもやしてしまったのですから。それで、ルドビーコは せかい語の けんきゅうを つづけることが できるようになりました。
ノートは なくなっていても せかい語は ルドビーコのあたまの中に 全部はいっていました。なにしろ さんざん くろうしてつくったことばですから。
もういちど ノートに書きなおしてみると、このことばの わるいところを あちこちに みつけることが できました。それで わるいところは かきなおしたので、まえよりも よいことばになりました。ノートを もやされて、まえよりよいものが できたのですから、ルドビーコは むしろ おとうさんに かんしゃしたほどでした。
ある日、町に かじがおきました。かねが なりひびきました。人々が 外に出てみると、かじはもうおさまっていましたので、みんなは なんだか だまされたような 気になりました。そんなとき、だれかが、「これは ユダヤ人が やったのだ。」と、いいだしました。「ユダヤ人を やっつけろ! ころしてしまえ!」人々は 手に ぼうをもち、ユダヤ人の家をこわし、ユダヤ人をなぐり、ころしたりしました。ルドビーコは、かぞくといっしょに 地下室に 2 日間も ふるえながら かくれていました。「ユダヤ人は どうして こんなめに あうんだろう。こんなたいへんなとき ぼくは せかい語なんか やっていて いいのかしら。」 ルドビーコは なやみました。
シオニズム という うんどうがありました。それは、せかい中にちらばっている ユダヤ人が あつまって、自分たちの国をつくろう、という うんどうのことです。ルドビーコは、自分たちの国さえあれば、こんな みじめな思いを しなくてもよいのだ、と思い だんだん このうんどうに ひかれるようになりました。
このうんどうのために ルドビーコは おおいに はたらきました。しかし、ルドビーコの めざしているのは、せかい中が へいわになることだったのです。それなのに、ユダヤ人という ひとつの みんぞくのことだけ 考えていて いいのだろうか。ルドビーコは また 自分の せかい語にもどっていきました。やがて 大学を そつぎょうした ルドビーコは ワルシャワの町を はなれて、いなかへ行って いしゃのしごとを はじめました。
やさしくて ひょうばんのいい、おいしゃさんでした。まずしい人々からは お金を うけとらないで、びょうきを みてあげました。しかし、やさしすぎた ルドビーコは、おもい びょうきの人に いしゃとして 何もしてあげられないで、その人がしんでいくのを、じっとみていることが、たまらなく なってきました。むかし、かわいい妹の サラが しんだときのことが、思い出されて くるのです。「ぼくは いしゃに むいてない。でも いしゃをやめてしまったら せっかく大学にいかしてくれた おとうさんや おかあさんが、どんなに かなしむだろう...... そうだ、目のいしゃになろう。目のびょうきで しぬことも ないだろう。」ルドビーコは ワルシャワの大学にもどり、目のいしゃになるための べんきょうを しました。
そのころ、ルドビーコは クララ・ジルベルニクという 女の人を すきになりました。クララのおとうさんは ルドビーコの あたらしい ことばのことを きいて
とても かんしんしました。このときには このことばを もう せかい語とよばずに
こうして 1887 年、ルドビーコが 27 才のとき
この
こどもが つぎつぎと うまれました。くらしていくためにも、エスペラントのためにも お金が いります。ところが エスペラントの しごとが いそがしすぎて、目いしゃの しごとの方は うまくいきません。あちこちと ばしょをかえて やってみましたが それでもだめです。ついに しばらくは エスペラントのしごとを やすむことにし、ひっしになって 目いしゃの しごとに うちこみました。 4 年間 がんばり やっと くらしていけるようになり、ほっとしました。エスペラントが 世に出てから、ルドビーコが けっこんしてから、もう 14 年も たっていました。
この 14 年のあいだにも エスペラントは ひろまっていき、とくに フランスでさかんに なりました。エスペラントの本もつぎつぎと でました。みどりのほしが エスペラントのしるしに きまりました。エスペラントをつかう、エスペランチストは むねに みどりのほしを つけるのです。
そのうちに フランスの エスペランチストが 中心になって エスペラントの せかい大会が ひらかれることに なりました。フランスの
ブ−ロ−ニュ・シュル・メール という町に せかい中 −− といっても、そのころは ほとんど ヨーロッパだけでしたが −− せかい中から エスペランチストが
700 人近く あつまりました。エスペラントを つくった人、ルドビーコ・ラザロ・ザメンホフも、長いあいだ いっしょにくろうしてきた つまの クララといっしょに
ワルシャワから 出かけて いきました。せがひくく、めがねをかけ、年よりふけたかんじの ルドビーコは、おずおずと みんなの前に たち、えんぜつを しました。
今までの くろうを 思うと なみだが
出そうに なりました。「せかい中から ここにあつまってこられた みなさん、人と人が なかよく 手をつなぐために ここにこられた
みなさん。つよい国の人も、よわい国の人も みんな きょうだいのように 手をつなげるよう、どんな むずかしいことも のりこえて がんばりましょう。エスペラントは
もう 私だけのものでは ありません。みんなのものなのです。」えんぜつのあとの 拍手は いつまでも つづきました。このえんぜつも、ほかの はなしあいも、みんな
ひとつのことば、エスペラントで おこなわれました。こうして 1905 年に
エスペラントに ほんやくされた せかいの名作も つぎつぎに出ました。アンデルセンの どうわも 出ました。
ルビーコが いちばん ねがっていたのは せかい中の人が なかよく くらせる よの中になる ということでした。そのために、おたがいに よく知りあえるよう
「国がちがっても、ことばが ちがっても、みんな しんじるかみさまがちがっていても、くらし方が ちがっていても、みんな
やがて このせんそう (
その
ルドビーコ・ラザロ・ザメンホフ、この ひとりの、せのひくい、あたまのはげた、めがねをかけた、ユダヤ人の目いしゃが、心から へいわを ねがって、いっしょうけんめいに つくりあげたひとつの うつくしい ことば、これが エスペラントです。これは せかいの へいわを ねがう ことば なのです。
この本は、国際語エスペラントの創始者、ルドビーコ・ラザロ・ザメンホフの一生を子供むきに書いたものです。小学校の3年生以上を対象にして書きました。
エスペラントが発表されてから、今年 (1985 年)で 98 年になります。あと 2 年で、このことばは 100 才 * になるわけです。
民族間のにくしみ、あらそいをのりこえ、世界の人類が手を取り合って暮せたら、 ―― その一つの手段として、ザメンホフはエスペラントを創ったのでした。
しかし、この一世紀は、ザメンホフの願いもむなしく、二つの大きな戦争の他にも、小さな戦争や紛争のない年はなかった、といえるほど、争いに満ちた年月でした。そして、エスペラントも、その争いの波にいつもまきこまれ、おしつぶされそうになりながらも、各地の辛抱づよいエスペランチスト達のどりょくにより、その小さな灯は、消されることなく、今日までもえつづけてきたのです。
他にもたくさんあった国際語・世界語の中で、エスペラントだけが、ただひとつ、現在もいきつづけているのは、この言語が美しい、すぐれた言語である、ということの他に、創始者ザメンホフの平和への願いが、常にエスペラントと共にあったからだと思います。その願いは、素朴で、あまりにも素朴であるために、現代のようにこみ入った社会では、相手にされないで、馬鹿にされたりします。しかし、現代のような世界だからこそ、力をもつ者が尊重され、その力と力の対決の世界だからこそ、ひとりひとりではまったく弱い人達の平和への願い、ザメンホフの願いは大事にされなければならないと思います。そして、国と国、民族と民族のみえないかべを打ちやぶって、心と心をつなぎ合う必要があると思います。
ザメンホフのこの素朴な願いは、子供の頃、ポーランドの小さな町、ビャウィストクで、見たり、体験したりした時に芽生えたものです。それだけに、子供にもとてもわかりやすいもの、いや子供だから大人よりも素直にわかるものだと思います。私は、私の子供たちにザメンホフのことを、エスペラントのことを 知ってもらいたい、そして私と同年輩の仲間の子供達も、やはり同じ年頃なので、彼等にも このことを知ってもらいたい、と思って 7 年前にこれを書きました。そして、親がエスペランチストでない子供達にも、やはり読んでもらいたいと思って、5 年前に私たちの町横浜で行われた第 67 回日本エスペラント大会の際に、本の形にしました。その後 5 年が過ぎて、この本を再版することになりましたが、この 5 年間の世の動きの中で、エスペラントの必要性を私は更に痛感しています。 100 年以上も前にヨーロッパの小さな町で、力の弱い少年の心に芽生えた願いが、国境を越え、海をこえて、年月をこえて、この本を読んだ子供達の小さな胸の片隅にそっと宿ることを希望して。