KS(コーソー)はエスペラント国への入り口だ
−エスペラントで韓国旅行−
田井 久之
Japana
Esperanto-Instituto/Ponto-libroj 2
前書き
KS(コ−ソ−)とはKomuna
Seminario de Japana kaj korea Junularoj の通称で、日本と韓国の青年を中心としたエスペラント・セミナー、つまりエスペラントを用いて交流を深めたり様々な話題について議論をしたりするための合宿です。奇数回は韓国、偶数回は日本でと、両国持ち回りで1年置きに開催されています。最近では、中国のエスペランティストも含めた3国の青年によって開かれています。
学生を中心にしており、初心者も多く、また、お金もそれほかからないなど最初に参加する国際的行事としては最適のものです。ここでは、田井久之さんがKS-9(第9回KS、1990年)に参加して韓国を旅行したときの体験記を紹介します。
筆者は1968年生まれ、1987年東京大学エスペラント研究会でエスペラント学習を開始、1992年に日本青年エスペラント連絡会(JEI)設立に参加しました。1994年、(財)日本エスペラント学会評議員に、1999には理事に就任されています。KSには第8回(1989年)から第16回まで(1997年)まで参加されています。
●いよいよ出発(8月8日)
大阪南港(なんこう)から釜山(ぷさん)行きのオリンピア号に乗る。いよいよ出発。
●大阪発釜山着そしてソウルへ(8月9日)
約22時間の船旅の後に釜山港へ到着。思えばこれは何世紀にもわたる日韓交流史の道のりではないか。歴史のロマンを感じるとともに「釜山港へ帰れ」のメロディ−が頭に浮かんだ。同じ船で来た名古屋からのKS参加者と一緒になったが、韓国人エスペランティストの出迎えがいない。しかたがないので釜山市内を少し見学してソウルに向かう。やっと予約できた夕方の汽車で約5時間。ソウル駅に着いた時には夜の10時をまわっていた。雨の降る中を駅まで迎えに来てくれた学生の家に世話になった。家族の人にも迷惑をかけたことだと思う。ともかくエスペラントのおかげで旅行のスタートは何とかうまくいった。
●セミナー会場へ(8月10日)
泊めてもらった学生の車でソウル市内をドライブ、セミナーの会場までつれていってもらった。ソウルも東京と同様に車が多い。しかし町のど真ん中に片側6車線の道路があるのにはびっくりした。途中書店に立ち寄り買い物をしたが、学習参考書の売り場がやたらと広かった。日本以上に受験戦争が激しいのだろう。おもしろそうだったので、日本語と数学の問題集を買ってみた。
セミナー会場に着くと、その前年日本にやってきたなつかしい顔ぶれに再会した。韓国でのKSでは日本人の参加者が圧倒的に少ないので、すぐに韓国人に囲まれる。同じ自己紹介の台詞を何度言ったか覚えてないが、エスペラントのいい練習にはなる。しかし、簡単に自己紹介をした程度では相手の名前を覚えるのは非常に困難だ。やはりじっくりと話をするしかない。この日には結局明け方近くまで話の輪に加わった。しかし私以上に徹夜をしたした人もたくさんいた。
●セミナー2日目(8月11日)
セミナー2日目。この日はテーマ討論会の担当を頼まれていた。日本からの参加者が少ないので頼まれるのも仕方がない。「アジアのエスペラント運動」というテーマだったが、テーマが抽象的な上に私の語学力不足、準備不足もたたって全然まとまりがつかなかった。気を取り直してその後のプログラムに参加した。
夜のGaja Vesperoでは日本側の出し物が他になかったせいもあって、一人で歌を歌うはめになった。この日も3時くらいまで起きていただろうか、しかし昼の疲れもあって比較的早く床についた。
この日困ったことに、韓国でも夏の日照り続きで水道水が制限されており、風呂に入ることができなかった。だだせさえ夏は水浴びで済ますというのに、この日はそれすらできず、結局着たきり雀になってしまった。
また気が付いたことだが、セミナー会場での食事は我々が想像したよりも質素だった。我々は韓国料理というと焼き肉を連想するが、会場での食事には肉はほとんどない。ただキムチだけは食べ放題だった。
●セミナー終了、ソウル大学見学(8月12日)
セミナー最終日。公式プログラムとしての日韓セミナーは終わりだが、旅行はまだ続く。いやこれからといった方がいいかもしれない。セミナー中に知り合いになった人に自分の旅行日程を説明して、訪問地ごとに宿泊先を確保する。この日はソウルのエスペランティストの家に泊めてもらった。風呂に入って少し昼寝してから、近くにあるソウル大学を見学しにいった。日本の大学でいえば東大、いや韓国ではそれ以上に権威のある大学だが、大学の構内も東大とはけた違いである。ちょっと変わった形の正面から入るとその広さに驚いてしまう。散歩コースにはもってこいだった。「民族統一」などといったスローガンが所々に目立つ。この辺も日本の大学とは違うなと感じた。
●民族村、ソウル市内見物(8月13日)
この日は1日がかりで、ソウル公害にある韓国民族村に行った。まるで300年前の李氏朝鮮時代にタイムスリップした感じである。日本の日光江戸村よりも完成度は上であろう。見物中に韓国時代劇のロケ隊に出会った。韓国の文化を勉強できた一方、日本と非常に似ているということも感じた。
民族村からの帰りにソウル市内を歩いていると、学生の兵役らしい警備隊に出会った。私は警備隊に呼び止められたものの、一緒にいた韓国人エスペランティストが私が日本人の学生であることを伝えてくれて事なきを得た。後で聞くと、私の体格がよくて(?)リュックサックを背負っていたので、そのなかにデモ用の火炎瓶でもあるのかと疑われたらしい。
この日ももう一晩同じエスペランティストの家に世話になり、マッコリ(どぶろく酒)を飲んで気持ち良く寝た。
●テグへ
ソウルを後にし、朝早い汽車に乗り一人でテグに向かう。汽車の切符は前日に市内の旅行会社で購入してある。韓国の長距離列車は完全予約制の上、シ−ズンには駅の売店は混み合うので、街中の旅行会社で切符を購入するのがいいと思う。
列車で隣に座った年配の男性から話しかけられたが韓国語はさっぱりわからず、「イルボン・サムラ」(日本人)一言こちらから伝えると、たどたどしい日本語で話しかけてきた。おそらく戦時中に日本語を強制的された世代なのだろう。堂々と日本語を使うのもはばかられてあまり言葉も交わせなかったが、私が列車を降りる際に覚えたての韓国語で「アンニョンヒ・カセヨ(さよなら)」を言うと嬉しそうな顔で見送ってくれた。
テグの駅でエスペランティストに迎えられて、その後市内を数か所見物した。エスペラントの講習会の席にも顔をだして交流を楽しんだ後、エスペランティストの家に世話になった。
●光復節(8月15日)
泊めてもらった家では朝食を食べながらふとテレビをつけた。日本でも見かけそうな子供向け教育番組だったが何だか違う。韓国の国旗である太極旗がやたらに出てくる。国旗についての説明があり、先生が子どもに国旗の絵を描かせる場面が目立つ。そういえば今日は8月15日、日本では単なる終戦記念日だが、韓国では光復節といって日帝支配から解放された記念日であり、祝日となっている。この日を機会として子どもにも愛国心を育てようという意図なのだろう。街角には国旗が並んでいるが、夏休み中あってか学生にはついうっかりと忘れてしまうこともあるようだ。ただ銀行なども休業となり、一緒にいた日本人旅行者がお金の両替ができずに苦労していた。
午前中に列車で釜山に向かい、エスペランティストに連れられて釜山市内を見物した。ここにはソウルとは異なる都会の雰囲気がある。港町らしく市場には活気があふれていた。魚市場近くの店で刺身を食べたが、韓国風に刺身に味噌をつけて食べる食べ方にはどうもなじめんかった。やはり日本人にはわさび醤油が合っていると思う。しかし魚そのものはおいしかった。
●プサン市内見学、日本へ(8月16日)
いよいよ韓国での最終日となった。前日と同様にエスペランティストに連れられて釜山市内を見物した。市内の市場でちょっとしたお土産を買い込んだ。
釜山港から再び大阪に向けて船に乗り込んだ。僕を案内してくれたエスペランティストも偶然同じ船で日本に旅行するという。結局大阪まで一緒になった。
●帰省(8月17日)
長い船旅の末、ようやく日本に到着した。私はそのまま実家へ帰省したので、同行の韓国人エスペランティストとは大阪港で別れた。何だかあっという間の旅行だったような気がする。
エスペラントを使って旅行する以上、語学力があるほど旅行もしやすいし、旅行の楽しさも大きいと思います。少なくとも自分の旅行日程くらいは説明できるようにして一人旅に出発するようにしたいものです。
KSに参加してみたいなと思ったら日本青年エスペラント連絡会((財)日本エスペラント学会気付)まで声をかけてみよう。
ponto-libroj ポント双書
1. | エスペラントの効用 | 山崎 静光 | |
2. | KS(コーソー)はエスペラント国への入り口だ | 田井 久之 | |
3. | エスペラントでインターネット | 青山 徹 | |
4. | エスペラントの現在(いま)−青年国際大会− | 木村 護郎 | |
5. | アマチュア無線で広がるエスペラントの世界 | 黒柳 吉隆 |
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