エスペラントの効用


ヤマサキ  セイコー

Japana Esperanto-Instituto/Ponto-libroj 1


  前書き

  エスペラントを知っていてずいぶんトクをした話、英語・フランス語より数倍の効用があるエスペラント、エスペラント読書の楽しみ、日本訳では味わえない楽しみ、人工語の表現力、エスペランティストの数は問題ではない、英語はすでに国際語?、習得容易性、オリジナル作品は?、さまざまな疑問に明快に答えます。
  筆者は財団法人日本エスペラント学会の前理事長。エスペラント・アカデミー会員。カナモジカイ、日本のローマ字社、アムネスティーの会員でもあります。元商社勤務。著書には『エスペラント語原小事典』*) 『冠詞 固有名詞および抽象名詞に関してのエスペラントおよび英語その他の民族語における用法の比較』など。
(初出「経友」1986年6月号)
*) 「語原」は筆者の用法、「語源」の誤用ではない。


●エスペラントを知っていてずいぶんトクをした
  60年代にニューヨークに4年、70年代にパリに5年駐在したが、エスペラントを知っていてずいぶんトクをした。外国でしごとをするバアイ、その国の文化にいかにpenetrateするかで成果はかなり違って来るものであるが、それは知り合いをいかにたくさん作るかにかかって来る。その意味でしごとの上でもトクをしたが私的な楽しさもあった。アメリカの威信がおとろえる前のニューヨーク(ケネディー婦人の臨席のもとバーンステーンの指揮でリンカーンセンターのopening weekが祝われたころの話である)で、東河のほとりの国際連合書記局の建物の豪華な会議室で(国連職員のなかまのセワで)毎月ひらかれるた集まりでの知的な会話は忘れることはできない。

●英語やフランス語を知っているほうがトクではないか
  「エスペラントを知っているよりも英語やフランス語を知っているほうが数倍の効用があるでしょうに」と言う人がいるかもしれない。そのとおりである。しかし、英語やフランス語を話すという事実だけで見ず知らずの人が十年の知己のごとく迎えてくれることがあるだろうか。エスペラントではそれがあるのである。世界中どこの都市へいっても『エスペラント年鑑』を引いてその都市の代表者に電話を掛けさえすれば友達がそこにいる。もっともわたくしのバアイは休暇も取れず旅行は週末を利用して金曜日の深夜の高速道路を飛ばすという典型的な「経済動物」的行動しか取れなかったので、エスペラントのなかまを頼ってのユックリした旅とは無縁であったが。

●エスペラント読書の効用
  わたくしにとってエスペラントの効用はむしろ読むことにある。世界の古典はほとんどエスペラントに訳されている。もっとも英独仏のようにだれでも読めるものは訳で読むのは愚かなことと言えようが、原文の難しいところはエスペラント訳が注釈の役を勤めるのである。さらに例えばシェークスピアのザメンホフ訳とNewell訳を原文と比較しながら読む楽しさは経験した者でないと分からない。

●日本訳では味わえない楽しみ
  こういうと、なにもエスペラント訳を参照しなくとも、りっぱな日本訳があるのではないかと言う人があるかも知れない。しかし、日本の詩の翻訳は翻訳ではない。散文を詩らしく行を変えて書いてあるだけのものである。外国で詩の翻訳と言えばアレクサンドランはアレクサンドランに、iambic pentameterはiambic pentameterに移すのである。脚韻も原詩のとおりにするのがふつうである(シェークスピアのバアイはblank verse であるが)。エスペラントのflexibilityは原詩の詩形を移すのにもっとも適している。さらに、エスペラント以外の民族語の訳を買おうと思っても(例えばシェークスピアのSchlegel訳)丸善や紀の国屋に売っているわけではない。これに反しエスペラント訳は日本エスペラント学会などのしかるべきところで探せば必ず見つかるのである。

●人工語の表現能力
  こう言うとまた人は問うであろう。「心理の機微、情熱の奔騰、精神の深淵をエスペラントのごとき人工語で描けるわけがない。」と。これは俗耳に入りやすい議論である。しかし言語の人工性は相対的なものである。多かれ少なかれ人工語でない文明語は存在しない。ラテン語の例をもちだすまでもなく、有名になり過ぎたRivarolのコトバをもって知られるフランス語の特質は自然に備わったものではない。「ボシュエやラシーヌがかたり、パスカルが定めた」フランス語は人工を極めた言語である。われわれが業務上話をするエリートの使うフランス語はパリの魚屋のしゃべるフランス語とは似ても似つかぬものである。だからといってフランス語は人間の感情の十全な表現であり得ないか。鴎外は岩見の方言でなく「ひからびた」共通語(部分的にはこの人自身が「作った」)で書いたのである。「土俗的なもの」 「直接的なもの」を重んじ、「西ヨーロッパ的合理主義」 「近代」に対する不信を表明する風潮が盛んである。だがこの流行は、この国の政治的風景に黒い影を落としている「呪術的なもの」への回帰と明らかに関連をもっている。それは「精神(ガイスト)が必然性(ナチュルリヒカイト)の中に埋もれている」東洋的社会、アジア的共同体の原理への回帰以外のものではない。フランス人の同僚が「われわれは皆カルテジアンである」と言う。カルテジアニズムの精髄はなにか。それは媒介されたもの以外は信じないことである。エスペラントの人工性を貶する人は文化とは自然の否定であることを忘れている人である。

●エスペランチストの数は問題ではない
  「そんなにけっこうなエスペラントを話せる人は何人いるのか」という質問が返ってくるであろう。せいぜい世界中で十万人くらいであろう。しかし、問題は数ではない。16世紀の国際語はラテン語であった。それを話す人は十万人より甚だしく多くはなかったであろう。しかし当時のエリートは皆ラテン語を話した。話す人の質が問題である。エリザベス女王は外国の使臣とギリシャ語で話をした。エラスムスはトマス モアに会ったときラテン語で話しをした。フランスのl'Institut会員で哲学者のBoiracが「エスペラントはデモクラシーのラテン語である」と言ったのはこの間の消息を語っている。

●英語がすでに国際語?
  「英語がすでに国際語である」という反論が直ちに返ってくる。しかし英語帝国主義の外見上の世界制覇にもかかわらず、民族主義の高まりは少数民族の主張に耳を傾けさせずには居なくなっている。国際連合やヨーロッパ共同体などの国際機関では公用語の増加が何億ドルという通訳・翻訳経費でその財政をおびやかしている。経済大国日本が外交大国たらんとして日本語の公用語化をはかる愚かな企てに乗出してもフシギはない。この問題の解決は中立的な国際語の採用以外にはない。「英語は英米人に差別的な優位を与えるからよくないかも知れないが、すでに世界には英語でも米語でもないEnglicとも言うべき中立的な国際語が成立している」と主張してする人がいる。しかしそれは幻想にすぎない。英語であるかぎり、英語あるいは米語からの距離に反比例する価値のヒエラルキアが必然的に成立し、Englicは実体性をもたず、英米の生粋のコトバから多少とも違うかぎりsecond-class citizen たることに甘んぜざるを得ない。

●エスペラントの習得容易性
  これに反しエスペラントは中立的であるほかに習得に容易であるという利点を持つ。トルストイがエスペラントを3時間でマスターした話は有名だが、人々はこれはトルストイが天才だったからだと一顧もしない。しかし、十分な集中があれば、これは普通の知力をもった人ならばだれにでも可能である。これを試すには−自分でやっていただくほかはない。

●オリジナル作品は
  「エスペラントに翻訳された古典のあるのは分かった。しかし、オリジナルの作品はあるのか」と問われるかも知れない。もちろんある。一つの例を挙げよう。エスペラント アカデミーの会長であったガストン ヴァランギャン(フランス人)に『われわれとそれ』というのがある。「それ」とは「神」と言ってもよい、「理念」と言ってのよい、「存在」と言ってもよい、われわれの外にあるなにものかである。この中でこの人はアンシクロペディスト以来のフランス無神論の伝統に立ち、しかも「戦闘的無神論」(ソヴェートでもはやらなくなってしまったが)とも無縁なアナトル フランス風の懐疑主義で宗教批判を行っている。日本の平均的な経済学部のキリスト教批判の知識は、エンゲルスの「ブルーノ  バウエルと原始キリスト教」あたりがタネホンで、その後の文献学的・考古学的達成はほとんど知らないのがふつうではなかろうか。この本はその空隙をうめてくれる。世界エスペラント協会の機関誌に書評が出ていたが、「この本を読むためだけにもエスペラントを学ぶ価値がある」とあった。わたくしはリープクネヒトがスペイン語が読めないと聞いたときマルクスの言ったコトバ(あるいはapocryphalであるかも知れないが)を思い出した。「セルバンテスを読むためだけにもスペイン語を学びたまえ。」この本はエスペラントでしか読むことができない。(セルバンテスはもちろんエスペラント訳で読むことができる。)がらにもなくエスペラントのアジプロをやってしまった。わたくしは運動家ではない。一介の享受者に過ぎない。だからこの文章を読んでエスペランチストになる人が一人もいなくても、いっこうに構わない。わたくしはエスペラントから十分に楽しみを得ている。これを知らない人は、あわれむべき人であると考えている。「エスペラントをやているんだって?なんのためにそんなことをやるんだ」と訊かれたときは、「フランス料理を食うんだって?なぜそんなものを食うんだ」と訊かれたであろうとき(こんな意味のない質問をする人はいまいが)感ずるであろうと同じことを感ずる。「食ったことのない人に説明しても無駄だ。だがかわいそうな人だなあ。」


ponto-libroj           ポント双書



1. エスペラントの効用   山崎 静光
2. KS(コーソー)はエスペラント国への入り口だ   田井 久之
3. エスペラントでインターネット   青山 徹
4. エスペラントの現在(いま)−青年国際大会−   木村 護郎
5. アマチュア無線で広がるエスペラントの世界   黒柳 吉隆
ポント双書 1
エスペラントの効用
 
1999年10月15日発行
著者 : 山崎静光(ヤマサキ セイコー)
発行者: 藤本達生/編集 ドイ・ヒロカズ
発行所: 財団法人日本エスペラント学会
  〒162-0042 東京都新宿区早稲田町12-3
  振替口座 00130-1-11325
  電話 03-3203-4581
  Fax 03-3203-4582
  メールアドレス esperanto@jei.or.jp
  ホームページ  
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本双書の冊子版の図書番号:ISBN4-8887-007-1 C0300
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