「エスペラント / La Revuo Orienta」 1997年1月号掲載

エスペラントは民族語をつぶすのではないか

ここには疑問が二つある。第一はエスペラントに他の民族語をつぶす意図があるか、第二は、実際にそれが可能か、である。初めからエスペラント運動の大勢は、言語コミュニケーションの権利平等を志向しており、それを妨げる言語帝国主義に対抗することによってマイノリティ言語の保護にこそ寄与すれ、民族語の破壊はまったく意図するものではない。とはいえ 意図するのは言語でなく人間である。エスペランティストには実際に、一つの世界・一つの人類・一つの言語を夢見た人たち(例えば、ザメンホフ自身やランティのように)もいる。そこで、民族の違いを超えて橋渡しする補助言語としての超民族語を「国際語」(民族主義を否定した民衆どうしの連携に注目すれば「民際語」)、世界唯一至高の言語を「世界語」として区別して、エスペラントは国際語であり世界語ではないという議論も行われる。なるほど現状は民際語主義が大勢だとしても、もし世界語主義が圧倒したら、その時はエスペラントは民族語をつぶすだろうか。答えは言語の歴史を見ればわかる。ある人間集団が母語をA言語からB言語に取り替える場合、A言語に対してB言語が簡単な言語かどうかは関係なく、B言語がより強大な権威・政治権力・経済力・使用人口を背景に、B言語が使えることが社会的に有利な状況が3世代以上続くことが必要である。幸いにも、あるいは残念なことに、エスペラントにはこんな条件はまったくない。そんな状況が3世代も持続することは万が一でもありえない。だからエスペラントは民族語をつぶさないし、つぶせない。

(タニ ヒロユキ)


これは「Revuo Orienta (1997年1月号)」の特集記事からの抜粋です。コメントや問い合わせは 「日本エスペラント学会 ウェブ管理人」宛でお願いします。

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